現在60歳半ばを過ぎ、コンピュータとのお付き合いは40年といったところです。その間ダーウィンさんも驚くくらいコ
ンピュータは進化し変化しました。「生き残るのは強いものでなく賢いものでもなく、変化するものだけ」という言葉通りに…。
新しい技術が生まれ、それが商品化され、新しいビジネスとなり、成熟するとまた新しい技術が生まれ、コンピュータの世界はこの50年間目まぐるしい速度で進んでいき、歴史を持った大きな企業が、新しく台頭してきた小さな企業が大きくなり、そして遂には入れ替わっていくことを繰り返してきました。コンピュータの進化と同じように、生物の進化というのも大変興味深いものです。
ダーウィンの「種の起源」は読んだことはありませんが、生物の進化についての解説本は何冊か本を読みました。インターネットで調べてみると、「生き残るのは強いものでなく賢いものでもなく、変化するものだけ」という言葉はダーウィンが言ったとされていますが、実はダーウィンの言葉ではなく、20世紀になって経済界の方々が会社や従業員に変化を強く促す時にこの言葉が(引用ではなく)使われているようです。でもいい言葉です。
東京理科大学理学部数学科に在学していた頃にはコンピュータとのお付き合いは確かPL-1というIBM社のプログラミング言語を数回受講しただけでした。当時、私や私の周囲の友人だけかも知れませんが大学の授業に出るというのは大変珍しく、1年に数回学内で会うだけの友人もいました。でもこれがコンピュータとの出会いの一歩だったかもしれません。

東京理科大学を卒業し、電子機器メーカーのカシオ計算機に就職し、営業本部でシステムの企画部門に配属されました。
入社後2週間程度は本社で社会人としての研修を受け、その後3ヶ月間は山梨県甲府市で、当時は電卓を国内製造していた甲府工場の一角でシステムエンジニアの研修が組まれました。毎日朝から夕方まで、フローチャートに始まりCOBOL言語や会計パッケージソフトまで、そして会計や簿記の知識などみっちり教えられ、夜は試験やプログラミングとかなりハードな研修でした。
研修後は本社の営業統轄部門の中のコンピュータ企画部門に配属されたので、それからは毎日コンピュータとのお付き合いが始まりました。
最初の1年間は社内システムであるシステム機器の受発注・販売管理システムを先輩SEと一緒にCOBOL言語で開発しました。これにはエドガー・ダイクストラが提唱していた「構造化プログラミング」をその後に社内で水平展開するための実験も含まれていました。私は右も左も分からず先輩SEの指示でCOBOLでコーディングやデバッグなどプログラマー(コーダー?)としての仕事をすのが精一杯でした。
その頃、初めてUnixという名前のオペレーティングシステムやC言語というのがあるということをその先輩SEから聞きました。PC(Personal Computer)はまだ一般的ではありませんでしたが、本の中でDOSやCP/M、それからXenixという名前のPC用のオペレーティングシステムがあったのを覚えています。

当時、米国ではモトローラ社のマイクロプロセッサーMC68000にUnix (或いはUnix-likeなOS) を乗せたワークステーション、即ちPERQ、Apollo、SUNなどがエンジニアリングワークステーションとしてCADやCAEマーケットに出始めた頃であり、私が当時使っていた1行80文字のディスプレィ、キーボードの上下左右のカーソルキーでプロンプトを移動させるシステムしか知らない私にとっては、ワークステーションのビットマップディスプレィ、マウス、タッチパッド、プルダウンメニュー、ローカルエリアネットワークなどその先進的な開発思想に驚いたものです。
その後、自社の開発部門と一緒にプログラムジェネレータや、コンピュータ端末の要求仕様をまとめアッセンブル言語のプログラムをソフト会社への発注などに携わったために多様なシステムの実務的な知識を得ました。また外注先のソフトハウスのエンジニアが納期の前には2日3日徹夜でプログラムの開発を終えふらふらになって疲れきった彼らの顔を何度も目にしコンピュータ技術の陰の部分も感じました。
国内営業の企画部門の一員にはいましたが、営業の方々の話を伺ったり、営業の方々とお客様へ同行しているうちに、営業の世界の方が私には合っているみたい…ということで営業の仕事をやってみたいと段々と思っていきました。

さて一方で、世界にはもっと進んだコンピュータがある、最先端のコンピュータに携わってみたいと思い、30歳代初めに大手商社の子会社である丸紅ハイテック株式会社(現在の丸紅情報システムズ株式会社)に入社し、LSIの論理シミュレーションシステムの営業を担当することになりました。英語に自信はありましたが電子工学の知識がなく大変な部分もありましたが、入社後は1ヶ月程は朝から夕方までそのシステムのマニュアルの翻訳をしました。更には、LSIの論理シミュレーションについての文献が大型書店にもなく、英文の研究論文を入手し理解したり、分からないときはアメリカのミネアポリスの開発元へテレックスを打ちました。テレックスは当時の商社では電話以外では一般的な通信手段で、タイプライターとプリンターはこちら側と相手側にあり、電話回線で結ばれています。日本でタイプライターで質問を入力すると、同時に相手のプリンターに出力されます。プリンターからは3枚か4枚複写がプリントされます。そのため、現在のメールでのCCはcarbon copyの略で残っています。ただ夜中会社で一人で残業していると時差の関係でいきなりプリンターが急にダッダッダッと大きな音をたてるのでその度にびっくりしました。
その頃は日本の半導体生産は世界のトップシェアを占めており、半導体業界は非常に活気があり研究開発にも積極的で大手の電気メーカーの屋台骨を支えていました。
LSIは設計段階で論理設計を行い仕様通りに論理設計がされているかホストコンピュータで論理シミュレーションを行い確認します。この論理シミュレーションはゲート間の経路の遅延(ディ レイ)も考慮しなければならず、またゲート数が幾何級数的に増えていくと(集積度が上がると)ホストコンピュータの負荷はとても大きくなって処理時間が大きくなっていきます。それならばこの論理シミュレーションの演算を専用の並列システムのハードウェアで計算し、シミュレーションの処理結果をホストに戻すことが考えられ開発されました。
システム構成は、IBM社の大型メインフレームであるIBM3081とチャネル接続し、または大手企業の研究所で最も使われていたDEC社のミニコンピュータVAX11/780とバス接続して、ホストコンピュータ上のシミュレーションデータをこの並列処理コンピュータ上で超高速に処理しその演算結果をホストに戻します。
当時のコンピュータの中心はメインフレームという大型システムで、IBMとBUNCH(Burroughs、UNIVAC、NCR、CDC、Honeywell)の6社が中心でした。

その1社のCDCはベクトルプロセッサーなどスーパーコンピューターの技術力に優位性をもった会社でした。スーパーコンピューターで有名なCray Research社の Cray-1を設計したSeymour Roger Cray(シーモア・クレイ)もCDC出身でしたし、この論理シミュレーションのシステム、特殊な並列処理のコンピュータの開発者、Richard Offerdahl(リチャード・オファダール)もCDCの出身者でした。

そして企業の研究所ではアプリケーションソフトは北米を中心とした海外製が多く、DECのミニコンピュ―タがよく使われていました。このミニコンピュ―タを複数台連ねたクラスターシステムを別にすれば、大型コンピュータに数多くの端末がぶら下がり、TSSで動かしていました。システムは大型コンピュータ本体を中心に垂直に構成され、ワークステーションを中心とする水平システムは生まれたばかりでした。クライアントサーバーという概念は当時はまだ聞いたことがなくずっと後にシステムの運用方法として生まれました。当時私がいた丸紅ハイテックには種々のCADシステムがありましたが、CADのシステムを見たときには驚きました。画面の上で絵を描くとそれが設計のデータとしてCAMという製造工程につながっていく、いままでの財務や会計システムとは大違い、全く驚きました。とにかく画面に絵が出るので!それもベクトルデータなので大きくも小さくも自由自在ですし、米国のハードウエアに驚き、ソフトウエアに驚く、そのような時代でした。

また丸紅ハイテックに入社した当時は、Apolloの日本総代理店として営業活動しており社内には多くのApolloコンピュータの他、VAX、それにPDP11、そしてVT100ターミナルなどがありました。時間があるときにはDECのオペレーティングシステムVAX/VMSやFortranについていろいろと教えてもらいました。もっとも営業でしたのでSEのようにはシステムについて深く知っているという訳ではありませんが…。

世界の3大コンピュータ研究所(AT&TのBell Labs、IBMのWatson研究所、Xerox社のParc)の1つである米国Xerox社のParc(Palo Alto Research Center)はスタンフォード大学に隣接し、多くのコンピュータ研究で成果や実績を出しており、丸紅ハイテックの仕事でシリコンバレーのベンチャー企業の製品に関わり、その過程でPARCの研究成果に感銘を受けました。
Parcには、オブジェクト指向プログラミング言語であるSmalltalkの開発で有名なアラン・ケイ、イーサーネットを発明したロバート・メトカーフ、後にMicrosoft社でWordなどワードプロセッサーを開発したチャールズ・シモニー、Adobe社を創業したチャールズ・ゲシキやジョン・ワーノックなどが在籍し、レーザープリンタ、パーソナルコンピュータの概念も研究されていました。 一人一人が1台ずつ優れたユーザーインターフェースを持つ、ラップトップコンピュータを使いネットワークを介して文字やグラフィックのデータをやり取りする「Dynabook」というシステム構想を持ち、現在のパーソナルコンピュータの原型である「Alto」を開発しました。
東海岸の保守的な考えからの中央集中システムに対しての、西海岸の自由な風が造りあげた水平分散システムでした。その後、米国Xerox社の上層部とParcの志向が合わず、オペレーティングシステムやアプリケーションは見学に来たスティーブ・ジョブズとビル・アトキンソン、ビル・ゲイツによりParcの成果は完全に模倣され、WindowsやAppleのパーソナルコンピュータなどの製品として結実し、Micro$oft社とApple社の成長へとつながっていきました。

さて、1980年代中頃に米国でマサチューセッツ工科大学、カーネギーメロン大学、スタンフォード大学でのコンピュータの研究に端を発し日本でも人工知能システムがブームとなり、富士ゼロックス社もParcの成果であるLispシステムやSmalltalkシステムの市場投入を考え当時のコンピュータ業界から開発者や営業が集められ、私は富士ゼロックス社へ入社しました。 その頃はAI、即ち人間の思考をコンピュータ上に構築し「考えるコンピュータ」がすぐにでも実現するように思われて、大学、大手メーカーの研究所や開発部門やシステム部門、大手ソフトウエア会社などほぼすべての業種でAIに関心が持たれて研究され、産業界ではエキスパートシステムに注目が集まり、新聞や雑誌にその多くの成功例などが載っていました 富士ゼロックス社では、Lisp言語やオブジェクト指向言語Smalltalkなどのシステムの販売、ソフトウエアの受託開発の営業そしてSunワークステーションの販売を行いました。
しかしながらこのブームはハードウエアやソフトウエアの限界から数年間で収まってしまい、当初夢見られたような、映画「2001年宇宙の旅」に出てくる人工知能コンピュータ、HAL-9000のような「考えるコンピュータ」は未来の技術でありまだ今は実現できないことが明らかになってきました。その後、ファジーやユーザーインタフェースの向上、ソフトウエア工学の進歩へと貢献したと思います。当時AIに集まった人々は、私も含めて、営業も技術者もクライアントもコンピュータに夢を見て、「計算機械」から「人工知能」への実現を夢見たのではないでしょうか。AIのブームが収まった後は、コンピュータの中心はSunワークステーションの時代となり、Sunが様々な業種や業態で採用され、Sunを中心としたサーバークライアントシステムが新しい流れとして、Sunはコンピュータ業界の標準プラットホームとなりました。
さて、1990年代に入り、私はコンピュータ業界から学校法人の経営の仕事に変わりました。また世間ではWindowsが次々にマーケットに投入され、PCが一般ユーザーの話題となり、そしてメインフレームによるシステム構築からワークステーションを使ったサーバークライアントシステムによるシステム構築へとコンピュータ業界の話題の中心としてダウンサイジングがキーワードになってきました。
1990年代半ばにはPC上でのUnixライクなオペレーティングシステムである、LinuxのSlackwareに出会い、その時は「自分のPCでUnixが動く!」ととてもうれしく思いました。 その後BSD系のFreeBSDやLinuxの中ではRedHatやDebianを知り、商用UnixのSolarisやRedHatLinuxを入手しPCにインストールしてシステムやネットワークを勉強しました。

現在、コンピュータで最も興味をもっているのは、Apple社のオペレーティングシステムであるMacOSXです。UnixにAquaという素晴らしいユーザーインターフェースを実装し「Unixを意識しないで」堅牢なUnixを使える素晴らしいオペレーティングシステムです。
