四人の辞世の句


六十歳を過ぎ、人生長いようで短いような、短いようで長いような気持ちを抱きつつ、日々どう過ごすべきかを思っています。
遥か昔の武将や僧侶が人生を終える前に多くの人が辞世の句を残しています。多くの辞世の句、どれも含蓄があり私たちの心に染み入りますが、私は特に西行、良寛和尚、細川ガラシャ、吉田松陰の辞世の句に感銘を受けます。

 

うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ

これは良寛和尚の辞世の句です。
良寛和尚は、一七五八年に越後、今の新潟県三島郡出雲崎町の名主の家に生まれ、十八歳で出家し修行を重ね曹洞宗の僧侶になりました。
良寛和尚は自分で「僧に非ず、俗に非ず」と言いきり、生涯無欲恬淡な性格で、寺を持たず、簡単な言葉によって一般庶民に分かりやすく仏法を説き庶民に信頼されました。
また酒を好み、晩年には、四十歳も年の離れた若い尼僧、貞心尼と恋に落ちています。そして貞心尼に見守れながら七十四歳で亡くなりました。

 

願はくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ

これは西行の辞世の句です。
西行は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武士、僧侶であり、歌人です。
一一一八年に生まれ二十三歳で出家し一一九十年に亡くなるまで、諸国を行脚しながら歌を詠み続けました。特に自然や人生を叙情的に歌い、桜の花や月の光を題材にした歌が多く作られました。
家集に『山家集』があり、新古今和歌集の代表的歌人の一人とされ九十四首と最も多く採録され、後世の歌人や文学作品にも大きな影響を与えました。

 

散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

これは細川ガラシャの辞世の句です。
細川ガラシャは一五六三年明智光秀の娘として生まれました。十六歳の時、織田信長のすすめで戦国大名で細川藤孝の長子、忠興のもとに嫁ぎました。
一五八二年に父明智光秀が織田信長を倒す「本能寺の変」を起こし、そのため京都の山里に二年間幽閉され、後に細川家屋敷に戻っても多くの困難があり、心の平安をキリスト教に求めて熱心に信仰し細川ガラシャと呼ばれました。
豊臣秀吉の死後、徳川家康と石田三成とが対立し、石田三成は、細川忠興など徳川側の人質をとろうとし細川ガラシャに人質になるよう強要しました。ところが、彼女はこれを敢然と拒否し、屋敷に火をかけて最期を遂げました。一六○○年七月十七日、三十八歳の生涯でした。
大変な美人であったと言われています。

 

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん

これは吉田松陰の辞世の句です。
前者は弟子あての辞世の句で、後者は家族あての辞世の句です。

吉田松陰は、文政十三年(一八三○年)山口県萩市に生まれ、松下村塾では久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋などといった明治維新の多くの有能な人物を育てました。
その後、江戸に出て佐久間象山に師事しました。
井伊直弼による安政の大獄が始まると、安政六年(一八五九年)老中暗殺計画を自分から申し出たため処刑されました。享年三十歳でした。